松井興長・有吉英貴連書状    1通 432,000円

長岡監物宛
(寛永15年)正月3日付  折紙 本文23行追書11行  30.7㎝×46.3㎝
虫損裏打補修  新史料 タトウ入

 

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【社長の一品コラム】

 

島原の乱の時の書状です。
正月3日の書状ですから、2日前の元旦に総大将の板倉重昌が総攻撃にて討死した後の書状です。差出人は肥後藩の長岡佐渡(松井興長)と有吉頼母(有吉英貴)で、長岡監物(米田是季)に宛てています。この3人は、島原の乱が起こってから江戸にいる藩主の細川忠利に代わって対策にあたっていた三家老です。

 

内容は、幕府に命じられて乱の処理にあたっていた豊後の府内の城主の日根野織部正吉明の書状に対する意見を長岡監物に尋ねています。文中に曽我又左衛門の名がありますが、曽我は、大阪町奉行でいち早く島原に着陣しています。細川家とは親しくしていた人物です。豊後の府内から大阪城代の阿部正次に乱の状況の知らせが入りますが、これを江戸まで持って行って指図を受けるのには時間がかかりすぎると、いち早く大阪町奉行の曽我又左衛門が島原に向かいました。

 

次の日の4日には、細川光尚は、川尻より舟で渡り島原に着陣することとなります。

忠利は、まだ江戸にいて戦況の報告を受けていましたが、板倉重昌が討死した知らせが1月12日に届き、幕府はそれにより、九州の諸大名に帰国を命じて着陣するように命じています。その後、2月27日に兵糧も底をついていたところを総攻撃で、立て籠もっていた男女子供達も含め3万8千人余りが全滅しました。

2019/1/5 (河島一夫)